がんばれ「岡田劇場」

3.11。映像になにができるのか

私たちボスは、赤坂で、未公開の映画や、劇場では上映できな
い映画、文化的貴重な映像資料などを上映する会
「シネ赤坂」という活動を行っています。


慶應義塾大学と実施した土方巽の映像
上映会

3.11の東日本大震災後、映像に携わる者に、なにが支援できるのか。映像文化が何の役に立つのか考えました。生死もわからず、暮らしもままならない被災地の現実の中で、支援のありかたを考えていました。


そこで、「シネ赤坂」での募金をはじめ、母体である会社よりの義援金を併せ、被災した映画館に直接支援しようと、支援先を探していました。

そんな折、仙台短編映画祭の日野さんに出逢いました。
日野さんはブログの中で、被災した岡田劇場についてリポートを掲載していました。

150年続いた劇場は流され、残ったのは、館主が、1キロ先で見つけた、軒を飾っていた赤い提灯がひとつだけだったと。

その衝撃を受け、すぐ日野さんに連絡し、岡田劇場の館主である菅原さんと会うことになりました。


左から、ボス代表平林、岡田劇場館主菅原さん、
仙台短編映画祭の日野さん

岡田劇場の面影を求めて、石巻に何度となく足を運びました。







このガレキの跡が、岡田劇場があった場所です
奥に見えるのが、石の森萬画館
 しかし、岡田劇場の建物も、基礎も何も残っていませんでした。
ただ、ぐにゃりと曲がった鉄骨や、ガレキが、ただ、そこにありました。



それから、岡田劇場には、「がんばれ会」という支援の会があることを知り、会から出版した「岡田劇場150年史」という本を読ませて頂きました。
3.11震災前の岡田劇場
そこに書いてあったのは、劇場の150年の歴史。江戸から始まり、この中州が石巻、いえ、東北最大の娯楽の基地であったことがわかりました。
荷揚げする船員たちが、航海後の大金を握りしめ、ここで豪遊したといいます。
劇場は、戦争により、強制的に撤去されたり、シネコンの登場など波乱の運命を歩みます。
東北の地に文化を!「歌舞伎座を模した岡田劇場」
終戦直前に、爆劇の目標になるからと軍により取り壊される
しかし、館主である菅原さん一族は、「人々の笑顔を見るために」の一点で、人を楽しませる大衆演芸や、歌謡ショー、映画を上映してきました。
鶴田浩二、美空ひばり、三波春夫他、ほとんどの歌手たちが舞台を踏み、
タイガースや、ピンクレディーなども公演を行いました。
そして、映画界の衰退、シネコンの登場で、岡田劇場も客は減る一方でした。
菅原さんは、待っていても客は来ない。「旅で稼ぐ」という行動に出ます。歌謡ショーなどの興業で地方を回り、あがった収益で、劇場を維持してきました。

そうやって守ってきたものとは、一体何なのか・・・・。

それは、劇場そのものが「人を楽しませる精神」
だったからではないでしょうか。
150年間、興業主たちが、つなげてきた「娯楽の精神と歴史」
その精神が宿った建物が、津波に流されてしまったのです。






 




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2012年2月4日土曜日
石巻と岡田劇場

門脇小学校は、津波のうえに流れてきたオイルで火災が起き、
校舎は真っ黒に焼けています。
窓を見ると津波の威力がわかります。
二宮金次郎の像に、金メダルがかかっていました。
がんばれという気持ちで、どなたかが
首にかけたのだと思います。なんだか、嬉しくなりました。
 

黄色いカンナの命

胸の金メダルが元気をくれた

中洲の「石ノ森萬画館」では、津波に流された方々が避難した
場所になったそうです。孤立したため、二階のカフェにあった
食糧で命をつないでいました。 

修理する前の橋。奥の二階建ての建物は
今は、ありません。その奥は「石ノ森萬画館」



山の上から、中洲を見る。夏の緑が元気をくれました!


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岡田劇場跡地

岡田劇場が津波に流されて、その跡は、今、
更地になりました。この写真は、2011年の夏頃です。
今は、見えている二軒も取り壊されて、まったくの更地になっています。
建物の基礎さえ残っていない、岡田劇場跡

旧北上川 中瀬という中州がかつて娯楽の中心地でした

記憶に残っているだけの劇場になってしまいました。

しかし、岡田劇場が紡いできた「娯楽の精神」は
劇場が消失しても、残るものなのか?

そんな疑問がわいてきました。
家とは何なのでしょうか?

昨年の夏、橋の歩道が使えず、車と人が一緒に
通行していました。今、橋は修繕されています。

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