被災地支援へ・南三陸町

宮城県南三陸町戸倉は、リアス式の入り江に
ある小さな漁村の集まり。3.11その時・・・・

2011311日、15メートルを超える大津波に、80軒あった海沿いの家屋はすべて流されました。私たちが訪れた時は、11月、仮設住宅での暮らしもやや落ちついてきた頃、この地域の記録映画の上映会のお手伝いでした。
それまでにも、石巻や女川などの被災地に入り、0からの出発である現実の暮らしを目の当たりにしていたのに、またもや現実に打ちのめされることに。

上映会は、ボランティアの方々が会場づくりから、運営、おにぎりの炊き出しまでやって
いました。私たちは、記録映像を撮影させてもらうために参加しましたが、窓には暗幕もなく、「そうだ黒いラシャ紙を買ってこよう」とふと思いました。

ところが、改めて考えたら、店も町もないのに、ラシャ紙を買おうと思っていた・・・。
こんな思いが、被災地と私たちを隔てる壁なんだと思いました。

当たり前に手にはいると思っていたものは、ここでは手に入らない。
そんなこと百も承知なのに・・・。

そんな気持ちを抑えて、今、ある新聞紙をつなぎ合わせ、ひとつしかない貴重なセロテープを、小さく切って使いまわしました。
こんなにセロテープがありがたいと思ったことはありません。

そうして始まった上映会。となりのおばちゃんが「あぁ、この人は亡くなってしまった」
と教えてくれました。
みな、家族や親せき、友人、さまざまな方を失ったこの地域になにか貢献できないかと思いました。
そこで出会ったのが、オーイングというペンションで仕事をしていた菓子職人長嶋涼太さん一家です。ペンションは丘の上にあったため、津波からは免れましたが、地盤が崩れ、家屋に被害が及び、住むことができません。
震災直後、大きな町には次々と支援の手が届きましたが、南三陸町から外れていた戸倉は立し、物資はなかなか届きませんでした。
建物の裏側の崖は、崩れ、家にも亀裂がはいり、
住むことができなくなりました
長嶋さんのお義母さんは言います。
当時、家族は、ペンションから、あるだけの布団や米、サツマイモなど全てを供出し、住民の皆さんと、サツマイモが入った薄い粥を作り、皆で分け合い、10日以上生き延びてきました。
もう、食糧が底をつきそうな時、自衛隊の隊員が、ミネラルウオーター
のペットボトルをたくさん身体にくくりつけ、両手にも持ち切れないほど
のの水を持って村に入ってきたときの感動は忘れられないと、お義母さんは言います。
長嶋さん一家は、今、仮設住宅で暮らしていますが、住民の皆さんの後押しもあり、マドレーヌで地域を復興しようと歩み始めました。

お義母さんは、「自分の家もペンションもままならないけど、今、住民の皆さんは家も仕事もないなか、不安な日々を送っています。ゆくゆくは、村の人たちにも手伝ってもらえるような菓子工房を作りたい」といいます。

港町・南三陸町

長嶋さんが暮らす南三陸町戸倉は、三陸の伝統文化を伝える農漁村です。戸倉神社を残しすべて、津波に流されました。
戸倉に入る手前に、南三陸町志津川漁港があります。気仙沼、女川と並んでの大きな漁港です。その地に降り立つと、呆然自失になるほどの壊滅状態に、ただ息をのむだけです。この広大な空間に、ただ風とカモメが飛ぶ、音のない静寂の時が、過ぎていくだけです。
左の三階建ての建物の屋根が破壊されてい
ます。津波の大きさがわかります
ガレキが片付きかろうじて使える岸壁。
右側の柱は加工場の柱でしょうか?


そんな中でも、港に漁師さんたちの姿がありました。志津川漁港では、岸壁が助かったところもあり、漁に出る船もあります。秋には、秋じゃけが、上がっていました。そこには漁師さんたちの笑顔がありました。
魚を見て感動することなんかなかった

フォークリフトが1台稼働していました
海は静か。津波に逃れた船や新造船もあり、活気が少しづつ戻ってきた様子が伺えます。 震災後の漁港の様子が下記、パノラマ写真で見られます。
http://photo.sankei.jp.msn.com/panorama/data/2011/0516minato/
嬉しいことに、魚屋さんが開店しました!

港から高台に上がる坂道に魚屋さんが開店しました。すべて店が流された南三陸町では、漁港付近は、小屋やライトバンで、ラーメンを販売したり、菓子などを売っていますが、きちんとした店の開店は初めて。住民の方々の悲願です。普段、東京にいると、店が開店することに無関心ですが、ここ、被災地にとっての店の開店は、まさに命の綱、希望の星なのです。

波伝谷の映画上映会に参加
吾妻和樹監督が、震災前に波伝谷の人々を撮影した映像をまとめたものを、村人に見てもらう会がありました。そこには、いきいきと暮らす人々が描かれていました。契約講という絆で結ばれている集落は、日本の原型ともいえます。波伝谷の講や風習については、宮城県の東北歴史博物館が編纂した「波伝谷の民族」-宮城県三陸海岸の村落にある暮らしの諸相ーに詳しい。

映画「波伝谷に生きる人々」が上映されました。
映像上映は、地元のボランティアの皆さん。全国から上映応援にきたボランティアの皆さんによって準備されました。長嶋さんのペンションでは、おにぎり200個が作られました。会場設営を手伝い、窓に黒い紙を貼りますが、足りません。こんな時には、コンビニや文房具店があればと思う。しかたなく、新聞紙を窓に貼る。セロレープも貴重なため、少しづつ使い回す。

当たり前にあるものがない。これが、被災地の現状です。
戸倉神社と春祈祷
毎年三月の第二日曜に波伝谷地区で行われる行事で、獅子舞が東の村境から一軒づつ家々を廻り、悪気を封じ込めた豆腐をくわえて舞います。日の暮れた頃に西の村境に到着し、身内にたくわえた悪気をすべて海に流して清めます。
戸倉神社に集まってから、各家々を回ります。
写真は、震災前と後の戸倉神社です。

戸倉神社。左側にある家は宮司さんの家
(写真:南三陸町観光協会より転載)

津波は、賽銭箱まできたといいます。
宮司さんの家も鳥居もありません